細やかな誓い
朱色のインクを垂らし込めたように。
じわじわと染まりゆく夜空を見上げ、誓う。
この悲しみを忘れるものか。
この悔しさを消し去るものか。
だが、それすらも。
愛しい彼女の為に覆い隠して見せよう。
君が守った唯一の宝物、その為ならば。
圭吾は、街中に細やかな居を構える譲原探偵事務所の雇われ探偵の一人だった。
頭の方は凡庸―――勉強という意味ならそれなりだが、頭脳という点で、である―――だが、機動力が高く、小賢しい鼠のようによく働いた。
時に物騒な案件に至っても、そのヒョロヒョロの身体には不釣り合いな…いや、だからこそ鋭いのかもしれないが、強引な力技でねじ伏せて来たこともあった。
とはいえ、肝心なところで甘い部分がちらつき、とても優秀な男とは言えない探偵、それが他者から見た印象だ。
それに数年前から加わったのが、譲原という姓だ。
前述したように優秀さには欠けるが、その甘い所が憎めない男である。
いつの間にやら事務所の名前を冠する所長、譲原に気に入られ家族の団らんに招かれるようになった。
譲原の家族は妻と、溺愛する一人娘。
それからどうなったのかなど、想像に難くない。
自分の子供ほどの年齢の彼を譲原は可愛がったし、年の近い娘はこの憎めない男をよく慕った。
程無くして彼が譲原圭吾となることは皆理解していたし、祝福したし、揶揄ったものだ。
圭吾は初め、この探偵事務所を継ぐことを渋っていたように思う。
器じゃないだとか、もっと優秀な弟子が居るでしょうとか。
それは確かに最もだったかもしれない。
しかし人望や愛嬌というべきその性質を好んだのは何も所長だけではなかったのだ。
幾ら否定しようとも、遠くないうちにその椅子に担ぎ上げられるだろう。
事件が起きたのはそんな矢先の12月だった。
街は近づくクリスマスに浮かれ、色とりどりのイルミネーションと煌めくオーナメントが輝く賑やかな夜。
大通りに面したほんの細やかな探偵事務所が、燃えた。
後の供述によれば、動機は恨み。しかも逆恨みであったことが分かった。
所長が片を付けた依頼によって、追い詰められた人物が居た。
そっちの件は自業自得であったが、それを暴いた所長が気に食わなかったのだろう。
犯人はクリスマス当日、家族を大事にしろという所長の方針で殆どのスタッフが早く帰宅し、手薄になった事務所に火をつけたのだ。
奴も思いも寄らなかったであろうことは、そんなスタッフを労う為事務所には所長の他…娘が事務員の代わりに、そして夜に一人残しては可哀想だからと孫娘が共に居た事だろう。
燃え盛る炎は放火の為用意された灯油と、乾燥した空気に煽られて轟々とその手を空に上げ。
愛に満ちたはずの夜空を毒々しい朱色が染めあげていく。
クリスマスに仕事仕事では味気ないか、とほんの少しの暇に外に、ケーキ屋に、出ていた圭吾がその顔を絶望色に染めた。
止める消防隊員の手を払い階段を駆け上がる。
炎と煙に巻かれ折り重なるように倒れ伏した所長と娘、そして彼らが守り抜いた幼い孫娘。
朱色の空に悲壮な慟哭が響き渡った。
程無くして再建された譲原探偵事務所、勿論所長に立ったのは前代譲原所長の婿、譲原圭吾だ。
恩のある所長を、愛してくれた妻を、奪った犯人を許すことは出来ない。
だが残された宝物を守りたい。
彼らが命懸けで守ったものを、自分も守る。
その基盤として、圭吾は探偵事務所の存続を選んだ。
悲しみなど、覆い隠して見せよう。
忘れはしない、だが見せもしない。
君が彷徨わないように、悲しみに目を曇らせないように。
前を歩いて見せよう。
まだ、歩いていいんだと見せてあげよう。
愛する娘の為ならば。
悲しみを、悔しさを覆い隠し、強い男で居たいと願う。
不甲斐ない父親の細やかな、誓い。
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