音と暮らす日

海も枯れるまで 現行未通過❌



トントントン、コトコトコト。


規則正しく響くのは軽やかに踊る包丁と、火の通り始めた根菜が鍋の中で揺れる音。

暖かい音に囲まれ、鮮やかな食材を選び取り、少しずつ摘み取る。

あか、あお、きいろ。

焼いたの、煮たの、蒸したの。

まるでパズルのようにあらゆる組み合わせを試すことが出来る、料理の時間が好きだ。


栗色の髪を邪魔にならないよう一つに束ねた雛凪は、日課となった夕飯づくりの時間を楽しんでいる最中だった。

暮らす環境が変わり、時折程度であった炊事を毎日やるようになったのだが、はじめこそ不安も多かったのは事実だ。

喫茶店で働きながら覚えた調理は、メニューにあるような一品料理が主。

勿論それには自信があったのだから良いのだけど、毎日それだけではすぐに飽きてしまうだろうし栄養バランスも悪い。

適当に自分の空腹を満たすだけなら十分だ。

しかし、食べてくれる人が居る。

それなら、彩も、栄養も気になるところで、今の暮らしになるにあたり、初めて強請ったものは服でも化粧品でもなくて「料理の本」だったのは今でも笑いながら会話に出されるエピソードだ。

ちょうど煮立った具沢山の汁物の火を止め、たっぷりと刻んだ青ネギを二つのお揃いのお椀に入れると。


「手伝おうか」


背後から静かで低い、声が雛凪の背を包むようにやんわりと掛かる。

振り返れば其処に居るのは柔らかな黒髪を肩に下ろした男、僚太郎だ。

涼やかな目元とすらりと通った鼻、形の良い唇が見栄えの良い美丈夫であるが、その顔には大きな傷が刻まれて痛々しい。

その傷を見るたびにチクリと胸が痛むのだが、当の本人は生きるのには何の支障もない、と気にしていない様子である。

そして傷の話をするたびに…雛凪の瞳、黒と朽葉色を混ぜた濁った溝色の色を彼は憐れむ。

けれどそれこそ当人は気にしていないのだ。

母と同じ鮮やかな海色の瞳は確かに自慢だったけれど、この瞳は彼と生きられることの証明だ。

そもそも東洋人には黒や茶の瞳を持つ人が多い。

確かに少々異質ではあるが、目立つほどではないだろう。


「お仕事はもういいの?」

「うん、きりがいいから後は明日」

「それならもうこっちは盛り付けるだけだから、お箸とか運んで?」

「わかった」


手を煩わせないなら、と食事の準備を頼むと、僚太郎は軽く頷いて言われた通りに箸や皿を取り出し始める。

テーブルへと振り返る際に、ぽんぽんと雛凪の頭を撫でるのも忘れずに。


「相変わらずいつも美味しそうだ、ありがとう」


テーブルに並んだのは根菜のたっぷり入ったけんちん汁と、野菜の副菜が二つに、メーンの魚のソテーが一つ。

どれも派手ではないけれど、仕事柄引きこもりがちの僚太郎の為、バランスよくビタミンやたんぱく質を取り入れた一汁三菜だ。

取り柄と言っていいかは分からないが、ある程度調理スキルがあってよかったと思う。

彼の為に尽くせる特技があることが誇らしくて。


カチャ、カチャ。


今度部屋に響くのは箸を使う音。

順々に皿を辿り、食材を持ち上げて口に運ぶ。

彼は食事をする指先まで綺麗だ。


「…それでね、いつも学校帰りによってくれる子達が居て…」


食卓に上がる会話は他愛のないもの。

天気がいい、次はどこに出かけようか、必要な物はないか。

最近ではそこに、雛凪のバイト先の話が加わった。


今の生活になる前にも小さな喫茶店で働いていたのもあり、家の中に籠るのではなく外に出て何かしたいという要望があって、近所にバイト募集中の喫茶店を見つけたのだ。

元の島で従事していた喫茶店はおばあさんが一人でまかなえる程度のほんの小さなものであったが、此度の喫茶店はもう少しだけ大きい。

けれど個人経営店というのは同じで、コーヒー豆と紅茶葉にこだわりの強い主人と、スイーツづくりが得意な奥方で切り盛りする暖かい店だ。

雛凪はそこで週に3、4回、給仕のバイトに就いていた。


そのおかげで全く見知りの無い土地での暮らしでありながらも、僚太郎以外に交流できる人物たちがぽつぽつと出来始め、同年代の子たちと同じとは言えないが、可笑しくない程度には世間知らずも直ってきている。

全員が知人という小さな島での生活も勿論楽しかったが、こうなってみると何処までも広い世界というのも良いものだと…外の世界に憧れる気持ちも分かると感じていた。

と、話の合間。

ふと見遣ると僚太郎の食事の手が止まっているのに気付いて首を傾げた。


「嫌いなものあった?」


普段ほとんど好き嫌いに関しては口にせず、いつも料理を褒めてくれる彼だがもしかしたらどうしても食べられないものでもあったのだろうかと思わず眉が下がる。

しかしそれ自体は杞憂だったようで、雛凪が心配そうに問いかけたのに気付くと、彼は慌てて首を横にした。


「いや、そんなことない。全部美味しいよ。そうじゃなくて…」


嫌いなものが、という問いにはすぐに否定を返したが、ではなぜ…となると少々言い辛そうに口籠ってみせる。

食事の件でなかったとしたら一体何がと余計に不安になり、双方の箸が止まってしまった。

だがその様子を見て僚太郎は一層慌て、困ったように目線を泳がせる。

あー…等と小さく唸り、頬を掻き。

やがて観念したといった風に軽く首を振ると。


「喫茶店での雛凪ちゃんは…私は見たことがないから。…喫茶店で話してる人たちに、ずるいなって思ってしまって…」

「ずるい?」


重々し気に口を開く様子に知らず緊張して、端をテーブルに置いていたのだがいざ話始めた内容は思ってもみないことだった。

もごもごと拗ねた子供のように口を尖らせて、しかも小さな声で零れてきたのはずるい、なんていう全く予想外の言葉。

意味を図ることが出来なくて、傾げた小首をまた反対に傾げる羽目になる。


「……やきもちだよ」

「えっ」


訳が分からないという風に首を傾げっぱなしなのが可笑しかったのか、急に噴き出すように笑い始めた僚太郎が照れ臭そうに言う。

端的な、分かりやすい言葉で。

分かりやすいだけに今度こそ言葉の意味はしかと伝わったが、今度慌てたのは雛凪の方だ。

彼は美しく、年上で社会との関わりもあり、随分と大人に見えている。

卑下するつもりはないが、まだまだ子供っぽい自分は必死に彼に追いつこうと藻掻いているのに、そんな彼が自分のことでやきもち、嫉妬するなんてこと。


思っても見なかった返答で急にかっと頬が熱くなった。

いや、自分では見えないが熱だけでなく、目に見えて赤く染まっているだろう。

愛しいという想いに違いも貴賤もないけれど、圧倒的に経験値が少ないのだ。

率直にそんな、恋愛感情をぶつける様なセリフを吐かれては、処理能力を裕に上回られてしまう。

あ…とか、う…とか言葉にならない声を溢し、ぱたぱたと何か伝えようとして上げた手も何も表さずにしまわれて。

明らかな動揺の様子は彼のツボに入ったようで、くすくすと肩を震わせて笑っていた。


「でもまだ、十分私の方が優位なようで安心した」

「そ、そんなの…当り前じゃない…」


極めつけに、にっこりと。

傷があったって変わらない、優しく綺麗な笑顔で微笑みかけられて、痛みではなく、嬉しさで胸がぎゅうと疼いた。

優位、だなんて甘っちょろい感情だけであるものか。

こうして微笑みかけられただけで全身の血が沸騰するほど熱くなるのに。

なんでもかんでも、話したいと思ってしまうほど彼との会話が楽しいのに。

彼の為に出来ることが増えるたびに誇らしい気持ちになるのに。

それほどまでに想っているのに、他よりちょっと優位だなんて、その程度のはずない。


「ずるいのは、神庭さんだよぉ」

「ふふ、ごめんね。冷めちゃうから食べよう」


未だに笑いが収まらず小さく身体を揺らす僚太郎に口を尖らせ、そっちこそと言い返せば、余計に可笑しそうに笑ってみせる。

そんなからかい交じりの笑顔すら美しく見えるのだから、まったくもって本当に、彼はずるい。


また鳴り始める食事を摂る箸の音、取り留めのない会話。

時折窓の外から風に身を委ねた木々の葉擦れの音のする穏やかな部屋の日常。

何の変哲もない。

ドラマティックな事件も、身もだえるような衝撃もない。

だが、それはなんて素晴らしい事だろうか。

毎日が当然のように訪れて、当然のように過ぎていく。

一日一日と、当たり前に陽が昇り、暮れていく。

その中に多少の喜びと衝動があったとしても、変わらずにまたゆっくり元通り。


顔に大きな傷を持つ美しい青年と、淀んで濁った色の瞳を持つ少女。

でもそこに浮かぶのは偽りのない、心からの笑顔で、ささやかな幸せが、いくつもいくつも。

螺旋を描くように、瞬く星を数えるように。

其処此処にあって、一つずつ二人を満たしていく。

いくら拾い上げても無くならない、小さな幸せの積み重ね。

たまに思い返せば胸が痛くなる日もあるけれど。

二人なら大丈夫。

手を取り合って一緒に、飛んだ。

あの日のことを決して忘れはしないから。


「そういえば昼間に届いていた荷物はなんだったの?」

「…あれは夕食後のお楽しみ」



(3604字)

#海も枯れるまでAfter