JACK DANIELS
ごぜんにじにあいにきて 現行未通過❌
陽はすっかりと落ち、空に真っ黒な緞帳が降りる。
高く見上げたその先にはきっと、途方も無い年月を費やした星の光が見えているはずだが、ネオンと排気ガスに塗れた喧騒の中には、そんな淡い光は届いてこない。
ただ絵の具をべとりと落としたように重たげな夜闇にあってなお、ギラつく下品なネオンと甲高い呼び込みの声に囲まれたある街中に、其処はあった。
近隣には若い娘が酌を、チャージ料無しでどう…などと悪質なキャッチが蔓延る中、呼び込みの居ない落ち着いた黒いガラス扉の奥に控えたそのクラブは悪く言えば場違いに、よく言えば掃き溜めに鶴といった体で凛と佇んでいる。
扉の前にはホテルのようなドアマンが控えており、来店するものは扉を押さずともうやうやしい礼とともに中へ招かれる。
ただしそのドアマンもきっちり着込んだスーツの下に、艶やかな墨が入っているのだけど…気づかれなければ関係のないことだ。
扉を抜ければ中は白い大理石の床に黒い絨毯、床と同じく白のレンガ造りの壁に囲まれ、綺羅びやかなシャンデリアが煌く、存外に明るい空間へと相成る。
特別に誂えたであろう白い革のソファと濃茶のシックなテーブルがチリ一つなく磨かれ、理路整然と並べられたホール。
中央に飾られた花器には名のある作家のものだろうか、大ぶりの白百合や木蓮が敷き詰められており、華やかな印象を更に際立たせる。
見るからに財界人に好まれそうな高級クラブ、しかし入店に気づいた女が落ち着いた黒地に金の刺繍の着物をサラリと靡かせ振り返った。
「あら!晃ちゃん久しぶりね、お仕事忙しかったの?」
女はこのクラブを取り仕切る上役…ママ、という奴だが、元々はもう少しリーズナブルな水商売の出のようで、なかなか洗練された雰囲気という声音が出ない。
ただし店中のもの一つ一つ選んだのは彼女であり、そのセンスと、かえって畏まらずに話しやすい、気さくな人柄から界隈でも愛されるママであるらしいが。
「愛子さんこんばんは。締切がきついやつが重なっちゃって…今日やっと終わりましたけどね」
毎回この店に入る瞬間こそ緊張する、しかし彼女の朗らかな笑顔を見てホッと息をついた男、南雲は親しげに晃、といつの間にか下の名前で呼ぶようになった彼女に苦笑した。
そのままお荷物を…と隣に受け取りに来てくれた黒服の男を手で制して戻してやる。
荷物もなにも、いつも背負っている小さなショルダーバッグしか持っていないし、上着すら羽織っていないいつものパーカーのままで、渡すものがなかったのだ。
店は確かに立派な佇まいであるが、なにも財界人、著名人、政治家限定…などと気取った店ではない。
寧ろこう見えて料金形態は明瞭で、南雲のようなふらりと立ち寄ってバー代わりに一杯やる、そんな客も歓迎していた。
とはいえ本来であれば分かっていたとしても一人では入りづらい、と踵を返すのが関の山。
まして南雲はあらゆる場所を飲み歩くなんて、酒豪でも遊び人でもない。―――金色に染め上げた頭髪とピアスの所為かそう思われることも往々にしてあるのだけれど―――
それでも気軽に足を運べる、それは何もママである愛子が気さくなだけが理由ではない。
「桔平ちゃん良かったわね、晃ちゃん来てくれたわよ」
愛子はそう言って店内奥のボックス席へと南雲を案内してくれた。
ふと見てみれば今日の彼女の着物の刺繍は流水紋とオシドリだ。
和装には有り体な図案かもしれないが、おしどり夫婦の語源にもなるようなこの鳥の文様は、絆や契を表す。
この店を、経理も兼ねる黒服の夫と切り盛りする彼女にはピッタリの図案だろう。
…デザインで覚えたことは思ったよりも日常的に、様々なところで目につく。
艶やかなドレスを着た女性の隣をすり抜け、オーダーメイドであろう洗練されたスーツを着込んだ男性の席を通り過ぎ、案内されるままに店の奥まで歩みをすすめると、其処に居たのはなんてことのない、シンプルなシャツにスラックスの男が一人。
シャツから覗く手首は細く、目の下の隈と相俟って不健康そうな雰囲気の漂うその男は、濃厚な甘い香りの煙を吐き出すと、咥えたままであった煙草を灰皿に押し付け、顔を上げる。
「別に待ち合わせてね―よ。……よく会うな、南雲」
「…ええ、本当に。長尾さん」
長尾とは顔見知りであるが、それ以上にどんな関係であるかと問われれば、答えるすべはない。
数ヶ月前…まだ風がひんやりと肌を刺す頃に深夜の海辺で偶々出会った。
その時共に不思議な体験をしたのも確かだが、無論示し合わせて其処に居たわけでもなければ、苗字以上の自己紹介をしたでもなく。
其の場限りの同行者であったはずなのだが、その後も何故か。
終電も近い夜中の街中で、同僚と立ち寄った居酒屋で、再会する偶然が重なった。
初めて会った海辺で何やらそれらしい曰く物を貰ったのも確かだが、あまりにも顔を合わせるのでこれはある意味運命だ、と共に飲む約束を交わし、その際に訪れたのがこのクラブだった。
此処は長尾の行きつけであるらしい。
どんな関係なのかは濁されて聞いていないが、愛子と親しい仲であるそうで、彼であれば、あるいは彼と共に入店すれば、自然と落ち着いて話のしやすい奥の席に通してもらえ、こちらが求めない限りホステスの女性が隣につくこともなかったので非常に居心地が良いのである。
要するに長尾の連れだと認識されたこの店は、厭らしい悪手を伸ばすキャッチや、馬鹿騒ぎするのが目的で飲みに来ているような連中に煩わされることもなく、落ち着いて旨い酒が飲める。
そういう場所になっていたのだ。
「此処が気に入ったか?」
自然な流れで同じ席に座ると、黒いシンプルなメニュー表を持って若い黒服が隣に侍るが、酒に詳しくない南雲の此処での返答もいつも通り、「この人と同じので」。
「そうですね、特別飲み歩くのが好きなわけじゃないですけど、ここは居心地がいいです」
そう答えれば、なぜだか長尾が少しだけ嬉しそうに笑う。
といってもグラスで隠れる口元が少々上がった気がする、といったものだが。
微かに流れるBGMは重たすぎないピアノクラシック。
手元のグラスは澄んだクリスタルで、安い居酒屋のような薄めた味のしない、上品な水割りの味わい。
やたらと絡みついて金を引き出そうとする女も居なければ、勢いだけの煩いバカも居ない。
沈み込むソファは程よい硬さで腰を落ち着けるのに心地よく、ついゆっくりと話し込んでしまうが、まあ。
たまにはいいだろうとスマホも取り出さず、時間を忘れて夜を楽しむ。
「桔平ちゃんと晃ちゃんってなんで気が合うのかしらね?月と太陽って感じ。反対なのにね」
ふといつの間にか同席していた愛子が口を開く。
落ち着いた茶系の赤い口紅で彩られた唇が水割りの入ったグラスに触れて、離れる。
そのほんの一瞬の間、ぽんと投げ出された他愛もない疑問に、男二人してきょとりと目を丸くしてしまう。
二人に共通点は、驚くほど少ない。
全てを語り合ったとは到底言えない程度ではあるが、見目や年齢の差もさることながら、職業、趣味、酒の好み。
合わないとまでは言わずとも、どれも同じ熱意で語るような話はなかったように思う。
だがなんとなく、会話していて小気味いいのは互いの空気感のおかげだろうか。
南雲は晴れやかな太陽というと…自身では烏滸がましいが、こざっぱりした性格からそのように称されることも多い。
ただ真っ青な空のてっぺんに輝く陽というよりも、良くて午後の既に傾き始めた陽だまり、程度ではと苦笑を禁じえないが。
対して長尾は月であろう。しかしこちらも漆黒の夜闇に輝く冴えた月ではない。
曇りがちな薄ぼけた空の中に隠れるように滲む、今にも見えなくなってしまいそうな月。
たしかに其処にあるのに、雲を挟んでしか見えない、そんな幕の向こうのそれだ。
ある意味で相反したものでありながら、どこか真っ直ぐでない、そんな所は似ていると言えるのかもしれない。
「さあ…?なんでですかね…?」
空になったグラスをテーブルに置くと、カランと氷がグラスの縁を打つ涼やかな音が響く。
そうしながら、答えを探して暫し口をつぐんでみるが結局なにを答えるにも納得がいかずに、首を傾げることになった。
「…反対だからいいんだろ」
すると再び煙草に火をつけていた長尾が小さく笑みを零す。
なんてこともなげに発せられた言葉もどこかで聞いたような台詞で、イマイチ意味はないのかもしれないが今はそれが一番しっくり来るように感じた。
「気が合うのは否定しないのね?珍しい~」
からかうように笑う愛子に、ほんの細やかな…本当に別段機嫌を損ねたわけでもなさそうな舌打ちを一つすると、長尾は緩やかに煙を吐き出した。
煙草独特の焦げた煙の匂いと、珍しい甘い香り。
腹の奥に溜まるような濃密な煙が、まるで今宵の軽口を包み込み、体に染み込ませているようだった。
「いつ俺の分払わせてくれるんですか…」
「年下はいいから甘えとけばいいんだよ」
これもいつもの流れだが、2,3杯の酒と会話を楽しみ、良いところでさてと席を立つと10割中10割、つまり毎回、長尾に会計を支払われてしまう。
確かに駅前の立ち飲み屋で飲むよりも、相当に金額はするだろうがそれなりの仕事をこなしている南雲だ、払えないわけでは決してないのに。
次は払う、次はおごると何度打診したところで、ハイハイと素気なく躱されてしまうのも年齢差というやつだろうか。
悔しいながらこの要望が通ったことはないし、通る糸口も見つからない。
「…じゃあ煙草一本ください」
「ちっとも”じゃあ”が掛かってないじゃねぇか…ほら」
これ以上管を巻いても仕方がないと、諦めに肩を竦めると再び懐から煙草の箱を取り出したのに気づき、貰い煙草を一本とねだる。
最早恒例となったこのやり取りに、長尾はまた小さく肩を揺らして笑うと手のひらの中の箱を軽くゆすり取り出した一本を咥えて火を付ける。
それから流れるように煙草とライターを南雲に寄越すと、ゆっくりと息を潜めるようにその甘い香りで口中を満たした。
それに倣い、南雲も箱から取り出した一本を唇で挟み込み、火を付ける。
ちりちりと微かな熱を感じると同時に、ふわりと煙が鼻をくすぐる。
煙はまるでバニラのような濃厚な甘さで、いやでもこの夜を記憶に刻みつける。
「…もう咽なくなったな」
自販機で買えるタバコよりも随分とタールのきついその煙草を、初めて一本もらったときには吸い方も分からずに咽返った。
それを覚えているのか、丁度傾き始めた月にも似た淡黄色の瞳が悪戯に細められる。
「もう何本も貰いましたからね」
初めこそこのからかうような視線が居心地悪く、子供っぽく拗ねてみたりもしたものだが、もう幾度。
貰い煙草とこのような他愛ない揶揄を重ねてきた。
いつの間にかそれほどの回数顔を合わせてきたのだと、同時に気づいてしまってやはり笑いが漏れた。
「…今度はどこか行きましょうか、飲みじゃないとこ」
「そういうのはお前のほうが得意そうだから、考えといてくれ」
夜は更け、それでも休まぬネオンはギラギラと薄墨の夜空を照らし、星も、月も霞ませる。
煤けた街角、場違いに重厚なガラス扉を背にした二人はそう笑って今宵も別れた。
いつもより少しだけ長く話し、いつもより長尾は一本多く煙草を吸った。
今度は、なんて初めての【約束】を交わして、二人はそれぞれ。
互いに知ることのない帰路へつくのだ。
(4591字)
2021/3/25 ごぜんにじにあいにきて 後日譚
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