明日は電気が止まる
庭師は何を口遊む 現行未通過❌
今日、ガスが止まった。
地球環境を大切に、と現代社会らしく月々の使用明細書はペーパーレスで、この地域の基本料金が一体いくらだったのかも分からない。
しかしやはり時代は便利なもので、少し調べてやればすぐに連絡先は分かったし、当たり障りない事情を説明して手続し、振り込みを終えれば面倒なことはもうなく、すぐに閉栓と相成った。
大手ガス会社の下請け作業員が気の良さそうな笑顔を浮かべて来訪し、ほんの5分ばかり、良く分からない作業をちょこちょことやって終わりましたとまた笑った。
俺は、彼がその窓口ではない事を重々分かっていながら、長らく滞納していたようですみませんでしたと謝罪し、彼はいいえ皆様事情がありますからと頷いてくれた。
サービスを供給することを生業としているこの大企業に本当の意味で申し訳なさを感じていたわけではないし、明日には顔も忘れてしまいそうな他人にある作業員の彼にちゃんと謝罪が出来る人だ、なんて良く思われたかったわけでもない。
けれどほんの些細な欠片も、後を濁すような真似をしたくなかったのだ。
この部屋の本当の持ち主、妹の為に。
長い間家主不在であった部屋は冷たく無機質で、確かに人がいた形跡はあるのに、その記憶は残っていない。
元々部屋を飾り立てる性分でもなかったのかもしれないが、生活するのに必要であろう幾許かの家具が申し訳程度に置いてあるだけだったので、これも明け渡しと共に殆ど置いていくことに大家と話して決まった。
小さな物件の為、最低限の家具が揃っていることは学生や独身者向けにとても有難い事であるらしい。
ベッドや衣類、浴場の小物類といったプライベートなものに関しては無論誰に引き継ぐことも出来ないので、明日処分業者が来訪して片付ける手筈となっている。
貴重品や思い出の品などがあれば先に避けておいてくださいね、などと注意されたが悲しいほどに彼女の生活ぶりも分からないような兄だったので、唯一自分の事が書かれていた日記帳だけを後生大事に抱えるしかなかった。
妹は、この部屋で毎日何を思って過ごしていただろう。
兄である自分を探していると綴っていた。
己も、あらゆる手段を講じていたはずだったのに…本当は並行する道を一本隔てた程度、それほど近くにいたのに何故再会出来なかったのだろう。
いや、何故、などと。
恨みがましく呟かずとも理由など重々分かっているのだけれど。
ともかくそんな生活に疲弊し、カルト宗教に縋った彼女を誰が責められるだろう。
あえて定めるならば、見つけられなかった兄だけを、責めてくれればいいと思う。
明日には処分業者が来て部屋が片付き、部屋を明け渡す手続きが終わる。
立会不要と言われているから時間は分からないが、夜には電気も止まる。
冷たいフローリングにごろりと横になって天井を眺めるが、天井の照明も見るからに飾り気がなくつまらない部屋だ。
ガスの手続き、電気の手続き…
指折りするべきこと、しなければならない事を数える。
様々な箇所へ滞納した生活費の支払い、明け渡し…
一折り、二折り、三折り、四折り。
墓地選定、納骨…
最早家族もなく遠い親族とやらも良く分からない己に、先祖代々の墓なんて優しい場所はない。
墓石を買うなり、永代供養に預けるなり、いずれかの方法を考えて収めてやらねばならない。
四十九日にはまだ遠いが、考えてもみなかった事案だ、いくら時間がかかるか分からない。
それまで。
パソコンだのカルト教団の資料だの、これまた無機質なもので汚く溢れかえった己の部屋で、ほんの一時の二人暮らしだ。
腕の中に抱えられる程度の大きさの、妹と。
今はまだ、やるべきことがある。
彼女を立派に弔うため、彼女に伝えられなかった情を伝える為。
ただの自己満足かもしれないが、それでもやるべきと、やりたいと思うことが、まだ。
しかし。
部屋を明け渡し、四十九日間の同居を終え、彼女をいずこかに収め。
やることがなくなったら。
自分は一体どうなっているだろう。
幸い、どこかの筋肉バカと違って拳銃を握れなくなるなんてトラウマにはならなかった。
酷く心を痛め、幾度思い起こしても腹の奥がざわついて吐き出したくなるような嫌悪感を覚えるのに、その手は拳銃を握れるし、引き金を引くことも出来る。
随分と物分かりのいい体と精神の連携だ、余りに情け知らずでいっそ笑えた。
身内をひどい方法で亡くした己を気遣って、また己の技量を買って、サイバー犯罪対策課や科学捜査研究所の諸先輩方が声を掛けてくれたこともある。
どう転んでも、ハイと言うだけで無職になることは無いだろう。
心残りがないと言えば嘘になる。
無いように過ごしてきた、そのはずだった。
誰も信用していなかった、必要以上に誰とも親交を持たなかった。
刑事になるのすらただの手段だった、妹を探すための。
だからその大願を失った今、組織に未練なんて無かったはずなのに。
人生をかけて探していた妹がもう居ない、そう分かった時点で己の生きる理由も、ましてや刑事である理由もなくなったが、あの時その手は拳銃を握り、猛り狂う美しき花の獣を撃った。
それはただの手段だと思っていたはずの「刑事」というものに、自分がすっかり染まっていたことの証拠ではないか。
其れはこれ以上の犠牲者を出してはいけない、まっすぐ生きていた彼女の思いを汚してはいけない、この場にいる誰も失ってはいけない…そんな青臭い、正義と呼ばれるもの。
正義。
あまりにも己に似合わなくて鳥肌が立つ。
それでも、それでも。
その手は拳銃を握り、引き金を引いたのだ。
知らず、ため息が零れる。
吸って吐き出す、それだけの吐息に何の意味もありはしないが、呼吸しているということ自体が命を感じる行為なのかもしれない。
何をするべきか、何がしたいのか、今はまだ何も考えられない。
だが、生きている。
道半ばだった、もっともっと楽しいことがあるはずだった妹の分まで。
きっと己は生きなければならない。
生きたいと思う。
彼女がどんな人生を歩もうとしていたのか、それは想像するも難しいけれど。
せめて後悔しないよう。
今までよりも、ほんの少しだけ周りの人間を信用して。
生きて行きたいと思う。
今は冷たい床から立ち上がるのもやっとだけど。
いつか、生きていてよかった、この場に妹が居れば良かったと思える。
その日まで―――。
#庭師は何を口遊む HO2 羽瀬エルク
(2554字)
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