沈む陽に標は下りて(上)

庭師は何を口遊む 現行未通過❌





体の芯まで凍り付かせる無味な冬から、暖かな日差しに出会いと別れの香りを薫らせる春へと移り変わる季節。


謹慎を解かれ職場に復帰することになった木曽巴は、慣れ親しんだ廊下…ではなく、最近やっと迷うことのなくなった県警の廊下を、少年捜査課の名札が下がる部屋まで歩いていた。

刑事でありながら、死者も出ていた事件で重要参考人となってしまった巴。

そこに悪意の一欠けらも無かったことは明白であり、また敢えて詳細を知らされていなかったであろう節も分かっており、過失と言っても形式ばかりの謹慎であったが、それが解かれると元の所属、零課に戻ることを彼女は躊躇った。

その事件により最も傷ついたのが、何を隠そうこの零課の面々だったからだ。


ただの好奇心だった。

自分であればうまく扱えるだろうという、驕りがなかったとは言えない。

それはほんの小さな心の動き一つ。

巴は、美しく、また強く改良したその種を、どのように使うのかなんて…まして、人の命を奪うためのものだったなんて、知らなかった。

知らなかったからと自分を擁護できるほど厚顔無恥ではなかった巴は、事件のあらましが明るみに出る程神経をすり減らし、心臓を締め付け、すべて終わった時にはもう一人で立ち上がれないほどに疲弊してしまった。


ショックを受けた、なんて言葉だけでは到底足りえない、それは絶望だった。

自分があの種を生み出したから、二人の女性の命を落とすことになった。

愛しい婚約者を失わせる目に遭わせた。

目の前で妹が殺される瞬間を見せつけられた。

縋る声を跳ね除け身内の家族を目の前で殺さなければならなくなった。


罪状として出てくる形ではほとんど何もない、無罪。

しかし考えて余りある、表には表れない大きな罪の形がこんなにも。

巴は傷ついた零課の面々の顔を見るたび己の罪の重さに耐えかね、謹慎が解かれるという話が来たときそのまま異動を申し出たのだった。


異動先は今まで慌ただしく過ごしていた本部に比べ、ほんの少しだけ田舎で静かな県警で、女性刑事であり、殺人事件への関与で心を痛めていた―――傍目にはそう見えていたらしい―――という事も相まってか、少年捜査課に配属された。


少年捜査課は読んで字のごとく、未成年が非行に走らないため目を光らせ、取り返しがつかないことをしでかす前に取り締まる、少年犯罪を捜査する部署である。

今まで女だてらに現場から立身出世した、生え抜きのエリートとして数々の難事件に携わった巴にとって、少年たちの深夜徘徊や家出少女の保護など、実に安穏として、心落ち着く仕事内容だった。


退屈になったかと言われるとそうでもないのが不思議だが、様々なしがらみや仮面を纏って犯罪に溺れる大人たちを相手にするよりも、ずっと純粋で脆い悪意に触れることは、巴の正義感をまた育ててくれる結果となったかもしれない、未だ刑事を辞める、とは言っていないのだから。

そう考えればこの異動にも、「逃げ」以外の役割もあったのではと…思いながら、少年捜査課の名札を一瞥し、部屋に入ると一人の女性刑事がぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。


「巴さん!この間の少年の件、ちょっとまとめてみたんです、見てもらえませんか?」


女性刑事は慌てて立ち上がったせいで乱れたショートカットの黒髪を照れ臭そうに手櫛で直し、切れ長の瞳で巴を見上げてくる。

彼女はこの少年捜査課に配属されてから一応部下、という事になった若い刑事で、名を時任唯子という。

時任と言えば、昔世話になった警視監にそんな名前の人がいたような…と話を振ると、けろりと「父です」と答えたので嫁入り前の腰掛だろうかと疑いもしたが、付き合ってみれば何のことは無い、父親の影響で刑事というものに多大な夢を見ている夢見がちな少女だった。

その情熱の割に緊張癖なのか表情が硬いのが玉に瑕だが。


そんな唯子が、直属の上司が同性になったことが嬉しいのか、巴が配属されてから一層仕事に熱が入るようになり、端的に言うととても懐いてくれて、異動であったにもかかわらず少年捜査課という部署を居心地の良い場所にしてくれたことには感謝せねばならない。

恐らくつい先日発見した事案の、家庭内の事情により非行に走った少年の更生計画でも考えていたのだろう。

刑事としてそれが正解かは分からないが、唯子は署内で話を聞くうち事情を打ち明けて泣いてしまった彼をいたく憐れみ、肩入れしてしまったようで。

先日から熱心に家庭訪問だの学校訪問など考えて奮闘していた様子である。

其れも警察という組織内では単独行動でやるわけにはいかないので、報告書がわりに上司である巴に許可を貰おうといったところなのだろう。


巴が来て以降、こうした相談がしやすくなったと嬉しそうに笑っていたのは記憶に新しい。

と、目の前にボールを翳された子犬のように爛々と目を輝かせた唯子から書類を受け取ったとほぼ同時に、内ポケットで私用の携帯が通知を受けて振動した。


私用のものだから後回しでも構わないが、唯子が気を使ってどうぞと言ってくるので、そのまま流れの様に取り出し、画面をのぞき込む。

すると、通知はLINEのものであり、送信者の欄には…草埜チーフ、と表示されていた。


一瞬頬が強張る。

唯子が見ても気づきはしなかっただろうが、ほんの少しだけ心臓を握られたような、嫌な緊張感が走った。


巴が傷つけた人の一人。

元々所属していた零課のチーフであり、巴が生み出した種の犠牲者の…婚約者だった人。

彼はかねてより面倒見の良い、頭の切れる男で、課を率いるのに実にうってつけの人材だった。

どうも長けた行動力で突っ走りがちな巴の手綱をうまく引いてくれ、数々のフォローをしてくれた、大変に世話になった人だ。

彼の率いる零課に居ることが誇らしかった。

時折繰り出す天然ボケも愛らしく、親しみのある人だった。

けれど今はそんな草埜からのLINE通知一つにいやに怯えてしまう。

あれほどの事件を経験したと言えど、誰の事も責めなかった彼なのに。


震えそうになる冷たい指先で携帯のロックを外すと、そのままLINEの画面が起動する。

通知からタップしているので、直接最新の…草埜のトーク画面へと。

よく緊張すると鼓動が早くなるというが、巴の場合は逆だった。

心臓が止まりそうなほど…静かになって、締め付けられる。


ピロン。


『最近の調子はどうだい?また守本君が飲み会をしようって言ってるよ。木曽さんもぜひどうかな?よかったら連絡してね。』


大笑いして転げまわるゆるキャラのスタンプ。


「………ふふ」


緊張する方が馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな気の抜ける、普段と何も変わらないメッセージ。

彼の性格には合いそうにはない不可思議なスタンプのチョイスは、メッセージにもあった元同僚、守本のセンスだろうか。


実は謹慎になってからもずっと、草埜は巴に幾度もメッセージを送ってくれていた。

其れは本当に他愛もない内容で、ひどく心をやつれさせた巴を気遣ってのことであろう、事件を彷彿させるようなことは何一つとして送って来なかった。

悲しみを隠して取り繕っているのとはまた違う、それを飲み込んででも寄り添ってくれているような。


彼の大きすぎる器には、本当に頭が下がる。

しんみりとその画面を眺めていると、新たなピロンという音と共に別のメッセージ受信を知らせる通知が入り、画面が切り替わる。

今度は其処に非常にタイムリーな名前、守本と表示されていた。

守本も…零課の同僚で、傷つけた人物の一人である。

彼は事件には本来関わり合いのない人間のはずだった、調査する刑事という立場以外は。

けれど彼は居合わせてしまった、魔性の種が発芽し一人の女性を飲み込んで化け物へと変容させた瞬間に。

そして選ばせてしまったのだ、その化け物から逃げるのか、肉親が辞めてくれと縋るのを振り切って化け物と化したその女性を殺すのか。

彼は後者を選んだ、そして二度と銃が握れない程に思い詰め、心を病んだ。

それでも彼も、巴を責めることはしなかった。

寧ろ一番いつも通り…まるで大型犬の様に大きな声で話し、付いて回って、零課の面々を立ち直らせんと明るく振舞っていた。

そんな強く、優しい守本からのメッセージ、通知1のマークを控えめにタップする。

すると。


『そろそろ木曽さんがジョッキをあける姿が恋しいっす!いつ頃お暇ですか?』

有名なロボットアニメのキャラがビールジョッキを掲げるスタンプ。


「なんで二人ともお酒絡みなのよ…」


思わず漏れたぼやき声に目の前の唯子が反応し、小首を傾げる。

不思議そうにしている様子が何やら子供っぽくて、事情を説明するように彼らのメッセージをそれぞれに見せてやれば、巴のものに加え、廊下には唯子と合わせて二人分の笑い声が響いた。


「巴さんと呑むの、すごく楽しみにしてらっしゃるんですね」

「口実にして飲み会がしたいだけかもよ?」


可笑しそうに笑いながら、きっと巴との飲み会が楽しみなのだと素直な感想を漏らす唯子に、照れ臭くなって揶揄を返す。

どちらにせよ、そうしてお声がかかるのだから好かれている証拠です、などとさらに気恥ずかしい事を言われる羽目になったが。

唯子が言うように、二人とも巴の事をよく気にかけ、優しく、暖かく見守って待ってくれている。

それは謹慎期間にも、それが解けてからも端々に感じた事であり、事実だ。

そんな二人からの柔らかいアプローチに巴自身、少しずつ件の事件への恐怖が和らぎ始めたのを、本当は気づいていた。

忘れることも、乗り越えることも出来ないだろう、それでも花屋の店先を通るだけで嘔気を催していたころより、最近はずっとましになった。

まだ色とりどりの花を見るとどうしても気分が沈んでしまうけれど、目を逸らすことが、それが苦手とひとこと言うことが、出来る程度には。

携帯をポケットにしまい、受け取った書類を改めて見ようとすると今度は目の前の唯子が「あ」と素っ頓狂な声を上げる。

目線の先は巴を通りこして背後。

そういえば部屋の入り口で話し込んでしまっていたのだから、背後を誰かが通ってもおかしくない。

いやそれにしても唯子の間の抜けた声は、ただ誰かが通ったとも言い難い気がして…振り返ると。


「木曽サン、今日は残業だったりシマス?」


其処には柳煤竹のような、灰がかってくすんだ緑の髪を面倒そうに弄りながら妙な猫背で立つ、隈の酷い男が一人、立っていた。



(下へ続く)