沈む陽に標は下りて(下)

庭師は何を口遊む 現行未通過❌



また一瞬心臓がぎゅっと締め付けられる。


彼は元零課の羽瀬。

彼も…傷つけた人物の一人である。

羽瀬は生き別れになった妹を探していた。

過去など誰にも話していなかったので、巴はおろか警察内部の誰も知る由は無かったのだけど。

そして事件は起こり、巴の生み出した種の発芽によって化け物と化した、一番最初の女性が羽瀬の妹だった。

羽瀬はやっと探し当てたはずの妹の目にも当てられぬ現状に慟哭し、どうか殺さないでくれと同僚に懇願し、しかし目の前で銃弾が放たれた。


彼の喪失感や絶望を思えば、恨みのままに罵詈雑言を浴びせかけられたとしても可笑しくない。

しかも、彼は零課の中で唯一、巴に連絡を寄越さなかった。当然だが。

謹慎ではなく、療養として数ヶ月休みを取り、復帰してからも巴のように零課には戻らず、今はコンピューター技術を買われてサイバー犯罪対策課に抜かれた、との噂は先の草埜、守本の話で聞いていた。

「いえ…今日は、特に…」

何もないです、そう一言返すだけなのに思わず声が上ずり、掌にじっとりと汗をかいた。

責める言葉を吐かれたわけではない。

ただ濃い隈に縁どられたぎょろりとした三白眼が、巴が目を逸らすのを許さないとでも言うように睨んでいる気がして瞬きが出来なかった。


「ジャア、お話ししましょうカ」


独特の人を小馬鹿にしたイントネーションで喋る彼に、今までは怒りや呆れが湧きこそすれ、こんなに怖いと思ったことは無い。

羽瀬に追い詰められた犯人たちはこんな思いをしていたのだろうかと、刑事にあるまじき嫌な想像をしてしまった。

様子のおかしい巴に気づいたのか唯子が心配そうに見上げてくるが、書類は明日見るから、と伝えるだけで精いっぱいだった。




夕陽はほどんど沈み、何とか朱色の明かりが覗いている程度の空。

周囲は薄暗く、逢魔が時という言葉が余りにも似合う夕方の県警屋上は、いかにも不気味で緊張感があった。

隣に居るのがこの男ではなく、先ほどの夢見がちな部下であれば何も思わないのだろうけども。


猫背である所為で本来の身長がいまいち分からない羽瀬だが、今は妙に威圧を感じる。

一言目に何を言われるのだろうと考えるだけで、逃げ出したいような、しかし其れ以上に早く止めを刺して欲しいような、妙な焦燥感に駆られた。


ひゅるりと駆け抜けていく風はやはりまだ肌寒くて微かに肩が震えたが、そんなものよりも余程この沈黙の方が冷えていて、寒い。

何と言って詰られるのだろうか、お前が種を生み出さなければ…か。否定のしようもない。

沈黙が重々しく、喉まで締め付けられるようだ。

其れとも先に謝罪を口にした方が幾分ましなのだろうか、だがそれすらも。

巴は選ぶことすらも傲慢であるように思えて口が開けなかった。


「俺、零課に戻ったんデスヨ」


不意に羽瀬の方が口を開く。

その声は待っていたようであり、恐れていたようでもあったが、少なくとも最初に紡がれた言葉の羅列は予想していたものとは全く違った。


思ってもみなかった言葉に、幾度も瞬きをして彼を見る。

彼は驚いた巴の顔を見て、口端を歪めたような、口調以上に独特で嫌味たらしい『いつもの』笑みを浮かべた。


「サイバーもまあ面白いデスけど…ゼロにもキレ者が一人いないとネ」


続けて苦笑するように零れた言葉も予想外のもの。

羽瀬こそ、深く傷つき事件に関わったものすべて二度と視界に入れないように生きていくのでは、そう思っていたのに。

いや、間違っていたわけではないはずだ。

彼は確かに長く休みを取り刑事引退も囁かれた。

引退は踏みとどまり、復帰することにはなったがやはり零課には戻らず異動した。

どれも、其々詳細は違うものの巴が辿った道と同じだ。

そうして己の深い傷を守り生きていくのだと…巴と同じだと、そう思っていたのに。


「どう、して…?」


思わずそのままの疑問が口をついて出る。


どうして、戻ったの?

どうして、戻れたの?

或いは、どうしてそれを私に話したの?か。


戸惑ってばかりの巴の様子が余程おかしいのか、くつくつと肩を揺らす意地の悪い彼の姿は、記憶の中にある在りし日の、いつもの姿と寸分違わず其処に在って、やたらに罪を背負った気持になって逃げだした巴の鼻の奥をツンと痛めた。


戸惑い、言葉を紡げず何度も顔を上げて口を開いては、声にならずに唇を噛み締める。

段々と目に見えて沈んでいく夕陽がまるで、二人を暗闇に包み込んでいくかのようだ。

眼下に見やる街並みは何も変わらず、ほんのちょっとだけ見慣れた光景より人が少なくて、田舎っぽかったかもしれないけど。

この街が、この世界が、あんな事件なんてなかったみたいに有体に時間を過ごす、その様が。

馬鹿みたいに現実的で、馬鹿みたいに幻想的にも思える、奇妙な逢魔が時。

真隣りに立った彼の、きつい金色の小さな瞳が、細められる。


「木曽サンは俺に、恨んでるって言われたかったデショ?」


ひゅう、と。

己が息を呑む音が聞こえた。

其れなりに高さのある県警の屋上、絶えず風が吹いているような場所でも、確かに。

言葉を失った、感情の吐露を閉ざされた、その瞬間を。

何よりも、誰よりも自身の身体が感じとって強張る。

だが、次に紡がれた言葉は何度も想像した、恨み言でも、怒りでもなかった。


「ゴメンネ。…でも恨んでないんだよ」

「どうして…」


先刻と全く同じ言葉を、やっと零す。

わざとなのか、偶々なのか、今度ばかりは揶揄うような語尾上がりの可笑しな口調ではなく、ただ本当に、諭すような声音で降りかかる、想像を裏切る、言葉。


「俺も草埜さんに恨んでるって言ってほしかった、相模原さんを撃った事…そうじゃないと、一瞬でもあいつを…守本を恨んだ俺が、惨めだったから」


ふと風がやむ。


誰もおらず、喧騒も遠い屋上にはしんと沈黙が訪れて、それを破るのはやはり彼で。

恐る恐る、顔を上げる。

まだ真っすぐ瞳を見返すことは出来なかった。

今にも崩れ落ちそうな本心を見抜かれてしまいそうだったからだ。


「恨んでもらった方が気が楽だよね、謝罪すればいいんだからさ。でも俺は本当に…木曽さんのことは恨んでない。楽にしてあげられなくてごめんね」


羽瀬の言葉に、心の重りが解かれるような、けれど不安定な水面に投げ出されるような、不思議な浮遊感と焦燥感が生まれる。


彼の言葉はその通りだ。

恨まれることを、詰られることをあれほど恐れながら、しかしそれを望んでいたのだ。

悪い事をしたのだと、叱られたかったのかもしれない、子供のように。

罰を待っていると言えば悲壮感に溢れていて格好がつくかもしれない、けれど蓋を開けてみれば自分の処遇を誰かに決めてもらいたかったのだ。

お前は悪い、そう突きつけて、謝罪しなければならないと困難な道にはしごをかけて欲しかった。

なのに。

なのに羽瀬は恨んでない、という。

いつこの険しい道に入ろうかと目の前で躊躇していたのに、そんなところに行かなくていいと、日の当たる横道に手招きされたような。

甘美でありながらも少しずつ築き上げた覚悟を無にするような、残酷で優しい許し。

音がしそうなほどにきつく、眉間に皺が寄る。

これほど強く顔面の筋肉を使った時があっただろうか、使っていなければ今にも…情けない顔をしてしまいそうだ。


「…木曽サンはさぁ、まだ戻ってこないの?」


鼻の奥の痛みと胸をざわつかせる熱、押し寄せる波に抗い握りしめた掌に爪が食い込んで痛い。

其処に、続けられる言葉に。

まさか、まさかと思いながらも弾かれるように視線を上げてしまう。

羽瀬はそうなるのを見透かしていたかのようにまた意地悪そうな顔で笑って、鼻を鳴らした。


そうして口を開こうとする。

聞きたい、聞きたくない。

やめて、やめないで。

そんなことを言うのは彼の『キャラ』じゃない。

そんな言葉を待ってしまうのも、巴の『キャラ』じゃない。

だから辞めてくれ、願う、願うけれど。


「草埜サンは仕事デキる人だけど偶に凄い天然ボケ入るし、守本は…本当に馬鹿だし…俺一人じゃ御守りが足りないヨ」


言わないで!


「だから、早く戻って来て。木曽サン」


すっかりと陽が沈んだせいで辺りは真っ暗になった。

そうは言っても街中なのだから、そこかしこに街灯はあって隣に立つ者の顔が見えないなんてことはない。

見えないほうがよかったけれど。


「…ウワっ、泣くの!?辞めてくださいヨ~」


気が付けば頬を生温い雫が伝っていて、ツンと痛かった鼻も緩みそうで、頭皮の毛穴が開くようなざわざわした感覚も全身いっぱいに広がっていく。

普通こういう場面では男は優しくハンカチなど差し出してくれるのではないか、憎まれ口ついでにそう当たり散らしたが、鼻水付きそうだから嫌だと余計に小癪な事を言い返された。


こんなつもりではなかったと己を叱咤しながらも、一度瓦解した涙腺は中々収まりがつかないようで、ごしごしとブラウスの袖で拭いても其処をぐしゃぐしゃに濡らすだけだった。

なんて格好悪いのだろうか、謝らせても貰えない癖に求められるのを嬉しいと思うなんて。

流石に声が上ずって反論しきれないが、羽瀬にとってもこの反応は予想外だったようで、頭を掻いたり、あー…とか意味のない溜息を溢してみたりと居心地の悪くなった様子だ

「泣かないデ。飲みにでも行く?」

「―――ぶ、なんで貴方達揃いも揃ってお酒で私のこと釣ろうとするのよ!」


きまりが悪くなったらしい羽瀬が、苦し紛れなのか下戸の癖に飲みに…なんて言うものだから思わず吹き出してしまった。

零課の面々と来たら、今日に限って何故みんな巴を飲みに誘うのか。

実際は考えなくても分かるだろう。

皆で行った飲み会が楽しかったから、ジョッキを持つ巴が笑っていたから。

男という物は本当に単純で困る、でもだからこそ本気なのだと笑えてしまうのかもしれない。


「…そうね、折角だから飲みに行きましょう…勿論、チーフと守本君も一緒にね」


いつの間にか止んでいた風が戻る。

春先のまだちょっとだけ肌寒い、夜の帳を抜ける風。

世界は今日も淀みなく、目まぐるしく移り変わり。

暫しすれば近所の庭にも、毎日通る公園にも、色とりどりの花が咲き乱れる春が来る。


きっと、美しい花が咲き乱れる様を見れば今でも気分が悪くなるし、目を逸らしたくなるだろう。

それほどまでに事件によって負った傷は大きかったし、完治はしないだろうということも分かっている。


巴だけではない。

恋愛絡みの話が出れば彼は傷を思い出すだろうし、家族の思い出を語っても彼は傷つくだろう、刑事である限り傷の引き金である拳銃に触れないわけにはいかないし、生きる限り花を見ずに生活することも出来ないはずだ。


それでも道は続いている。

歪で、所々暗くなっているところも、舗装されていないところも、障害物に塞がれているところもある道が。

その道は何本も目の前にあって、どの道にも正解も不正解も無い、ただ時間の流れとともに前に進む道だ。

道の途中で立ち止まっても、手を差し伸べてくれるような甘っちょろい仲間はいない。

ただそこに居るのは立ち止まった巴を見て、同じように足を止めて、その場所が遥か先であったとしても気長に待っていてくれる、人たちがいる。

ただの同僚や上司という言葉ではくくり切れない、不格好の関係の彼らがいる。

正直、零課に戻ると心が定まったわけではない。

今はまだ、其処に道があると、気付いただけ。





#庭師は何を口遊む スピンオフ (8750字)2021.1.16 Happy Birthday saku !

HO1 草埜征一(モロツヨシ)

HO2 羽瀬エルク(べに)

HO3 守本剛司(めひ)

HO4 木曽巴(さく)