Vanilla

20years ago


その時俺は、こんな映画みたいな状況、本当にあるんだな…と、まるで他人事のように考えていた。


家の中を土足で踏み込み、全く笑えない内容をニヤニヤと口を歪めて話すならず者達。

恥も外聞もなく床に額を擦り付けて泣き、許しを請う男。

男の傍らにはさっきまで口をつけていたワンカップ。

安スーパーで購入してつまみにしていた干菓子が床に散らばっていた。


一人囲まれ、泣きじゃくる男は俺の父。

父は元は大病院の医局長にまで上り詰めた医者であり、腕前は優れていたが唯々実直なまでの面白みのない男だった。

上を立て、下を労う器量があればよかったが、仕事にしか能力を発揮しなかった父はやがて病院内の勢力抗争でやり玉に挙げられ。

そんな折、病院内どころか医学業界を揺るがす大変な医療事故を起こした。


連日ニュースや新聞で報じられ、あっという間に父の地位は転落。

賠償金だなんだと財産の殆どを没収、当時の自宅には生ごみが投げ入れられ、毎分嫌がらせの電話が鳴り、カーテンを開ければ報道陣のフラッシュが照らされる散々な有様。

父曰く、絶対に自分が起こした事故じゃない、とのことだが、父を擁護してくれるような味方を作って来なかったのは、父の落ち度だろう。


父が野心を持った医者であったなら、彼が言う自分が起こした事故ではない事を証明するため奮闘したかも知れないし、うまく情報を転がして別の病院にそれなりのポストで迎えられることもあったかもしれない。


だが、やはり実直で腕がいい「だけしか」取り柄が無かったのだ。

父は這い上がることも出来ず、医学会から追放され、転落人生の型押しの如く酒に溺れて借金を抱え、連日暴力を振るった。


その頃母は世間の目に耐え切れず出奔していたが、北の方へ行く飛行機のチケットを買う姿が、息子である俺と大差ないような年齢の男と共に目撃されていた。

女を喜ばせる術など何も持っていない父が射止めたにしては出来過ぎた母であったから、まあもうゲームオーバーということだろう。

行動の早さに感心こそすれ、恨むほどの感情は沸かなかった。

幸いだったのは俺ももう父や母に頼らなくても生きて行くくらいは出来る年齢であったことで、残念だったのは、かといって親の金が無ければ折角受かった大学の医学部で勉強を続けることも出来ず退学せざるを得なくなったことだ。


「兄貴ぃ…医者つったってこんなん使い物になりませんよ」

「アル中か?手震えてんじゃねーか」


連日酒浸りで恨み言ばかりの父を見ているのも気が滅入り、家を出ていたのだが偶々荷物を取りに帰宅したところでこんな光景に出くわした。

父は帰宅した息子に気づいたのかいないのか、アルコールのせいで呂律も回っておらずいまいち良く分からない。

そんな父を見下ろすならず者…任侠映画によく出てきそうなガラの悪い男たちは、それでも暴力を加えるわけではなく、土足なのを除けばただ話をしに来たような紳士的にすら見える態度でそこに居た。


酒を散らかし服も寝巻のままで小汚らしい年輩の男を、しゃがんで見下ろしながらも嘆息するばかりで声を荒げることもない。

どうしますか、と一人が振り返れば扉近く―――実は最も俺と近い―――に突っ立っていた男がフー、と長く煙草の煙を吐き出した。


「当てが外れたなあ…後回しにするとあの爺さん余計に値を吊り上げてきそうなのに」


そんなことを言いながら一歩ずつ父に近づくその男は、見ただけで分かる高級そうな仕立てのスーツをさらりと着こなし、カラスの濡羽色の髪をオールバックに撫でつけた見るからにインテリヤクザという奴で、彼らの言葉を聞くにその男が此処では一番偉い兄貴分、そして父の前でしゃがんであーあ、などとニヤついているのが舎弟なのだろう。


そんな男が、ごく自然に振り返り、俺を見る。

今まで部屋に入っても何も言ってこなかった、立ち尽くす俺に対してまるで見えていないように振舞っていた男が。


「2階の黒いカーテンの部屋はお前の部屋か?」


不意な問い掛けに面食らって目を丸くしてしまう。

一瞬何を聞かれたかと困惑したが、この家の2階にある部屋のうち、黒いカーテンが掛かっているのは、確かについ先日まで俺が使っていた部屋だ。

他の部屋は母親の趣味でどちらかといえば少女趣味に近い明るいカーテンや家具が揃っているので間違いない。

そうだ、と答えれば顔だけ振り返っていた男はやっと全身をくるりと向き直し、至極嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。


「そうかそうか。お前、医大生という奴だな?丁度良かった」

「辞めてくれ、息子は関係ない!」


何を話しかけられているのか意味が分からず、二の句を告げられずにいると、今までおいおいと泣いて呂律も回らなかった父が、急に顔を上げて声を荒げた。

すぐ傍にいた舎弟のズボンに縋るようにして体を起こし、必死の形相で「息子だけは、息子だけは」と繰り返す。

そこでやっと父が俺に人並みの愛情を持ってくれていたことが分かり、異様な状況ではあったが、正直場違いにも嬉しいと胸を暖かくしてしまった。


だから、というものでもないが。

俺はそのオールバックの男に誘われるままついて行くことにした。

この時、「いいよ」と一言だけ零した台詞が俺が父に言った最後の言葉であり、泣きながら父が繰り返した「すまない」が父が俺に言った最後の言葉になった。




34years ago


ぷかと不恰好に空へ滲んで溶けていく煙草の煙を、俺は子供らしく喜んで見上げ、けらけらと笑っていた。


「あら貴方ったらまた口だけで煙草を吸ってるでしょう?」


取り込んだ洗濯物を抱えた母が、くすくすと可笑しそうに笑う。

母は煙草の吸い方が分かる程度に世間慣れした女だが、結婚してからはすっかり家庭的になったと祖母が言っていたのを幼心に覚えている。


「本当は苦手なんでしょう?わざわざ吸う必要なんてないのに」


中々吐き出しきれない煙を持て余しながら、父も苦笑していた。

当時の俺は分からなかったが、煙草とは単純に吸って吐くだけでは味わえない。

煙をたっぷりと肺に押し込み、その香りと味を楽しむのだ。

父はどうやらそれが苦手で、本当にただ吸って口の中に溜めた煙を吐き出す、つまり喫煙者のふりをしていたのだ。


「喫煙所で生まれるコミュニケーションと云うものもあるんだと言われて…」


思えば味方というほど大袈裟なものでなくとも、友人、気の置けない後輩といったものの無かった父も悩んでいたのだろう。

当時は殆どの男が煙草を嗜み、酒の席やちょっとした休憩にも喫煙はつきもので、何故か煙草を吸っている間は自然と本音の話が出来たり、いつもより話がはずんだりするものだった。

どうすれば周りに打ち解けられるだろうと…恐らくその時の同僚にでも相談し、喫煙を勧められたらしい。


父は休みの日、縁側で喫煙の練習をしていた。

幼い俺にその葛藤は分からなかったが、いつも忙しい父がその間だけはゆっくりと構ってくれるのがひどく嬉しくて、練習というくらいだから上手くなったら辞めてしまうかも、煙草を吸うの下手なままでいて!なんて思ったものだ。

小学校に上がってからは医者の息子らしく勉強漬けになり、またそれを当然のように受け入れていったので幼い頃の楽しかった記憶というのはそのくらいしかない。

ただ、今考えてみると幼かった俺の傍で吸っても嫌がられない、そんな煙草を選んで練習していた父は、存外に俺の事が好きだったのかもしれない。


燻る不恰好な煙と、甘い香り。

俺の中に眠る幸福にキラキラと輝いていた日。




19years ago


この日は広くもない廊下を何往復したか分からない。

懇意にしている組の奴らが抗争に巻き込まれたとかで若い衆がどかどかと運び込まれ、辺りは痛みに呻く強面、怒りに壁を殴る強面、そんな奴らで狭いことこの上ない。

かくいう俺も仕事着代わりにしていたシャツは血みどろで、いったい何人の処置でどれだけの返り血を浴びたのか分からない。

普通の病院であったら卒倒ものの不衛生さだ。


「鉄砲一発くらいでギャンギャン啼くんじゃねぇ!その玉飾りならいっしょに切っちまうか!?」


拳銃玉を腹に食らい、強かに出血して呻く強面…もとい患者に、下品な怒声を浴びせて処置しているのは白髪交じりの髪を短く切りそろえた男で、俺の師匠ともいえる医師。

もっとも、彼も白衣なんて着ていないし、そもそも此処は病院なんて綺麗なところではなく、汚い裏路地の奥のさらに奥、常人ならば廃墟と見まごうような、放棄された元クラブ。


彼はいわゆる闇医者だった。

かつては真っ当な医師であったらしいが、裏社会に腕を買われとある組の後ろ盾を得ながら、普通の病院には掛かれないような奴らを診る闇医者になったらしい。

それ以上に詳しい事は分からない。

酒に酔った時ぐらいしか素直にものを喋らない癖にあり得ないほどの酒豪であり、俺は彼と呑んで一度も最後まで意識を保っていられたことがなかったから。


俺は父親と今生の別れとなった一年前のあの日から、この闇医院で働いている。

どうもあの日、組の奴らはこの世話になっている闇医者に「助手が欲しい」と言われ、しこたま借金をこさえて落ちぶれている元医局長に目を付けたという事のようだった。

だが残念ながら思った以上にアルコール依存が強かった父は既に医者としては使い物にならず、其処へ折よく帰宅した息子である俺が医大生だったのでこれ幸いと父の代わりに連れて行かれたのが顛末。

学校の成績は良かったものの、何せ現場にも出ていない学生だったから、この闇医者は当初使い物にならんとひどく落胆していたが。

結局小間使いのようなことから使われ始め、一年経った今ではやっと治療や手術の手伝いもさせてもらえるようになった。


「桔平!薬取ってくんのにどんだけ時間かかってんだ!」

「うるせぇジジイ!あんたが適当にしまうせいだろうが!!」


…その頃には俺も、随分とその生活に染まって、上品な言葉遣いを忘れていた様に思う。



18years ago


ゲホ、ゴホッ

分かりやすく噎せ返って肩を揺らす俺を見て、闇医者は心配など欠片もなくゲラゲラと笑っていた。

思わず投げ出された煙草をひょいと広い、自分の口に咥えると、闇医者は何で今更煙草なんぞやってみたいなんて言い出すんだか、とニヤついて、これみよがしに長く煙を吐き出した。


「口で吸うんじゃねぇよ、煙が勿体ないだろう?肺で吸いな」

「だからそれが知りたいんだって…」


喫煙者という物はみんなそうなのだろうか。

明確なアドバイスなどくれやしない、それとも普通はごく自然にできる事なのだろうか。

俺はどうやら父と同じように煙草を吸うのがあまり上手くないらしい。

息を吸えば自然と肺まで煙は落ちるものと思っていたが、どうにも喉につっかえるような感触がして咳き込んでしまう。

あの時の父もこんな風に、本当は興味のない煙草を燻らせていたのだろうか。



17years ago


「煙草、一本くれよ」


その日は珍しく闇医者は留守にしていた。

其処に偶々やってきたのは俺をこの闇医院に連れてきた組の者で、あの上等なスーツのインテリヤクザだ。当時は若頭補佐であったが、今は若頭に昇進しており、組長の信頼も厚いともっぱらの評判だ。

そんな彼が舎弟の足を洗わせるってんで、これまた映画の世界かと思ってしまうが…まあ、手の処置をしてほしいと若い男を連れてきた。

闇医者はいなかったが、実際の病院よりも遥かに忙しい此処での強制研修に、俺は既に師匠代わりの闇医者が居なくてもある程度の処置は出来るようになっていたから、問題はなかった。


その男は惚れた女に子供が出来たから、真っ当に働いて幸せにしてやりたいんだそうだ。

これまた作り話によくありそうなありがちな話だが、これが特段珍しい話ではないというのも、この世界に浸ってから知った。

舎弟の治療を終えると、インテリヤクザと俺に何度も頭を下げ、俺には「ありがとう、先生」なんて言うものだからむず痒くなって鼻をかく。

その背中を見送って、ひゅうと風に吹かれたら、なんだか肩の力が抜けてしまった。


傍らのインテリヤクザを見遣れば、こちらも一つの荷が下りたといった感覚か、何処か清々しい面持ちで。


そういう時。

…そういう時というと…まあ、このインテリヤクザが人間らしい顔を見せるそんな時に。

俺は、胸がぎゅうと痛くなるのに、気づかないふりをして。

いつも煙草を一本とせがんだ。



5years ago


べっとりと血の付いたシャツを水に漬け、乱雑に漂白剤を垂らしながら煙を吸い込む。

俺はすっかり煙草の吸うのにも慣れ、もう以前のように噎せ返ったりすることもなかったし、指先には苦い匂いと味が染みつくようになっていた。

この日は三人だったか、四人だったか。

日本刀で切り付けられたという強面たちの縫合手術を一挙に行ったが、一人に何か所も治療を施したせいで、実際の患者が何人だったか忘れてしまった。

この頃には治療のメインを俺に任される事も多くなり、組の連中には「若先生」と「大先生」と呼び分けられていた。


燻る煙を何と無しに見つめていると、感慨に耽っているとでも思ったのか、闇医者に背中を叩かれる。


「随分と板についてきたじゃねぇか、若先生。この医院もいずれはお前に任せてよさそうだな」


闇医者はある時から、しきりにいつかは俺に後を継げと言うようになった。

年寄りが引退を仄めかすのは口癖か通過儀礼のようなものだと思って軽く流していたが、彼は己に巣食っていた病の魔の手に気付いていたのだろう。

だが、弱音を吐くことも、弱った姿を見せる事も、最期の最期までなかった。


「此処に来た時のように、あいつが助けてくれるよ」


その年の冬に闇医者は死んだが、結局一度も、彼は俺に頼ったりしなかった。




3years ago


俺は闇医院の唯一の医者となっていた。

そんな業界だから毎日毎日忙しいわけではない。

時には暇を持て余してどうでも良い工作をして時間を潰した時もあったし、女と過ごした時もあったが、業界の異様さを置いておけば順風満帆な人生であった割に満たされたと感じる事はなかった。


俺をこの医院に連れてきたインテリヤクザは一つの組を任されるようになり、一層忙しくやっているようで会うことは少なくなった。

だがそれでも、闇医者が「あいつが助けてくれる」と言った通り、時々様子を見にきては資金援助や資材調達など、医院存続の為に手を貸してくれた。

相変わらずいい年した俺を子ども扱いしたが、幾ら抗議しても二十も離れていればいつまで経ってもお子様だと笑われたものだ。


それ以上の関係性の変化はなかった、今もない。

時折会っては仕事に必要な話をして、ほんの数事他愛もない話をする。

癖になった貰い煙草の一本を、吸い終わるまでの僅かな時間だけ。

十年以上前に感じていた小さな小さな“歪み”は、若気の至りだと片づける事にも慣れていた。


立ち上る煙は二本分。

舌に残る苦みの割に、辺りに漂うのは場違いな甘い香り。




その病院は、裏路地の奥、更にその奥の奥を行くとぽつんと現れる。

常人であれば廃墟としか思えない、草臥れた一つの元クラブ。

正面玄関はしっかりと塞がれて見る影もないが、すぐ横の細い辻に入ればクラブであった当時に従業員出入口であった重たい金属の扉が目に入る。

扉にはいつもカギはかかっていない、どんな者でも金さえあれば受け入れる。

其処はそんな病院。

看板もなく、医師免許もない。

丁寧な口調で治療説明してくれるような医師はいない。

だが、たとえ非合法な薬物で狂ったように自傷した女でも、数えきれないほど銃弾の雨に晒されて虫の息の男でも。

この医院しか縋れない、そんな者たちの為には必ず門戸を開く。

汚らしく、所々へこんだ重たい金属の扉。

開けば香るのは全く病院らしくない。

微かな硝煙と、甘いバニラの香り。



#長尾桔平過去録