Sweet
20years ago.
口の悪い闇医者の所で助手まがいの仕事をし始めてから暫しの事、その日は乾いた寒空に突然の黒い雲が立ち込め、季節外れのにわか雨なぞ降った日だった。
後ろ盾になっている組の、名前を言っていかなかったので「恐らくお偉いさん」に、何か治療の手が必要とのことで、闇医者は態々往診に出掛けていた。
まだ役に立たないと思われたのか、会わせるわけにはいかない人物なのかは分からないが、お前は来なくていいとぴしゃりと言い放たれ、すっかり準備するのにも手慣れた往診鞄をひったくって出て行ったのが30分ほど前のこと。
横柄な態度はいつものことだが、何となく強引に鞄を持っていかれたことが腹立たしくて、傘もなく雨が降ってきた空模様にざまあみろと毒づいてソファに横になった。
この闇医院は廃業したクラブの建物をそのまま活用したので病院らしい造りはしていない。
それでも診察台、手術室、薬品棚と必要な改装は済んでいるが、いわゆる待合室と診察室、処置室に隔たりはなく、クラブロビーにあたる所にばらばらと配置されていた。
その待合室のソファ―――抗争だので患者がごった返した時はそのまま診察台にも処置台にもなる―――にごろりと寝転がって天井を見上げると、クラブであった時の名残の古ぼけたミラーボールと埃が被ったシャンデリアが目に入る。
この場所に連れてこられた初めの頃こそ物珍しくも感じたが、今や見慣れた天井には何も面白みも感じない。
一定間隔で打ち付ける静かな雨音が心地よく、俺はいつの間にか眠りの淵に落ちていた。
…と、大抵どこでも熟睡できる性質なのだが、その日は寝入ってほんの10分程度という所で強引に起こされた。
出入り口になっているかつての従業員口の鉄製扉が勢い良く空いた音がした時点で多少覚醒していたのだが、その後響いてきた甲高い声とヒールの音、勢いよく滑った転倒音に、微睡むどころか飛び起きざるを得なくなったのだ。
慌てて体を起こせばロビー入ってすぐ目の前で、雨に降られたのだろう、びしょ濡れになった女が地べたに座ってこちらを見ていた。
胸元のざっくりとあいた黒いワンピースに豪奢な毛皮、どう見ても堅気ではない女は雨に濡れてみすぼらしく引っ付いた茶髪を強引にかき上げ、真っ赤な口紅を引いた口を大きく開き、「センセーはぁ!?」と叫び散らしたのだった。
この医院で「先生」と呼ばれるのなど、今往診に出てしまっている闇医者くらいなものだろう。
居ないと口にする前に、きょろきょろと部屋の中を見回した女は「居ない!」と泣き声を上げ始めた。
流石に目の前でわんわん泣かれては転寝している処ではない。
己に見覚えはないが、センセー!センセー!と泣く女を無視するわけにはいかず、少なくとも闇医者の知り合いなのだろうと声を掛けてやれば、更に「なんでセンセー居ないの~」と泣きじゃくった。
女を床に座らせておくのも、びしょ濡れのままにしておくのも気が引けて、先ほどまで転寝していたソファを譲り、タオルと、己の寝巻にしていたスウェットを持ってきてやり…そこまでで視点が天井に戻った。
いつの間に名乗ったか慌ただしくしていて覚えていないが、「桔平ちゃん」とこそばゆい呼ばれ方をされ、辞めろと否定する暇もなく唇が塞がれて、噎せ返るような雨と香水の匂いが混じるのをソファの上でふたり、堪能する内に雨は止んでいた。
その後も彼女は何かある度に闇医院を訪れ、その嫋やかな肌を惜しげもなく堪能させた。
てっきり闇医者の情人なのだと思っていたが、女は元々患者であり、恩からいつの間にか親子以上に年の離れた闇医者へ片思いしてしまい、事あるごとに押しかけているという間柄だったらしい。
その癖一人でいると面白がるように人の体を弄ぶのだから質が悪いが、彼女が言うには愛と性欲は別物、だそうだ。
まさかこの奔放な女が、関係性は徐々に変わっていったとはいえ、この先20年以上も付き合うことになろうとは思いはしなかったが。
19years ago.
其れもある夜の事だ。
その日は雲が厚く、風の濁った熱帯夜でエアコンを効かせていてもどこかムシムシと肌に纏わりつく湿った空気を感じる不快な夜だった。
もう慣れたもので、指名が伸びない、先輩にいびられるだのと変わり映えのしない愚痴を聞いてやりながら、ハイハイと宥めがてらにその肩を撫で、事に及ぶ。
いかにもな香水が纏わりついて非日常的な淫靡な雰囲気を煽り、すっかりと馴染む身体がその柔らかさと熱さを与えてくれる。
闇医者はその日も不在で、…最早逆に不在を狙ってきているのではと疑わしくもあるが。
がらんと広い廃クラブに艶めかしい女の声が響く。
熱中しているような、いないような、だが勿論その瞬間だけはどんな人間だって馬鹿になっているから注意力も散漫なのかもしれないが、俺はいつの間にかソファ脇、すぐ真横まで彼が近づいているのに気付かなかった。
真横に不意に感じた気配に慌てて横を向けば、そこに居たのは家主である闇医者…でもなくて、俺をこの闇医院に連れてきたインテリヤクザだ。
相も変わらず高級そうなスーツを纏って煙草を咥え、若いなぁなどと笑っていた。
無論俺は人に情事を見せたいと思うような性分の無い、極々普通の男であったからそれはもう慌てて腰の上で体を揺さぶる女をどかそうとしたのだが、熱で馬鹿になった脳は適切な抵抗をすることも出来ず、一枚も二枚も上手な女が赤い唇でにやりと笑ったのが見えただけで、その獣じみた行為を辞めさせてもらうことは出来なかった。
恥ずかしいとも、情けないともつかない焦燥感に追われ、しかしどこかでかつてないほどの興奮を覚えた自分に混乱しながら、遠くない限界に躍起になって声をこらえていた時に、あの人が俺の顎先を撫でながら可笑しそうに「イッちまえ」と言ったのが耳の奥に叩き込まれ、俺は人生最速の早漏ぶりを発揮した。
因みにこれは今後も暫く笑い話にされたが、俺自身も何度もこれを思い返して抜いたので自業自得というか、因果応報というものだろう。
ズリネタにしていた事もその後ばれて大層笑われたが、その時の状況ではなく、あの人に触れられた顎先をなぞる乾いた指の感触と、染付いた煙草の匂いがネタの本質だとは…多分気付かれていなかっただろう。
#長尾桔平過去録
(2545字)
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