この唇が忘れない

同居人 現行未通過❌




下着は国内の手頃なブランドで着心地の良いものを。

近所のセレクトショップで買ったラグナムーンのパンツは上品な黒がやっと良い塩梅にこなれてきた頃合い、ネイルはクリムゾン、合わせたアクセサリーは豪華なゴールド。

それから、光沢のあるグレーがひときわ艶めくレッドヴァレンティノのタフタカシュクール。

最後にシャネルのディミトリで妖艶な赤を唇に引いて。

鏡に向き合う女、宮松瀬里奈は、その鏡像世界に浮かび上がる自身の姿に思わず苦笑を零した。


「…確かに桃子には似合わなかったかもね。」


レッドヴァレンティノのトップスも、シャネルの口紅も、どちらも加瀬桃子から譲り受けたものだ。


探偵である桃子と、その助手を務める瀬里奈。

以前に、いつか探偵になるために助手をしているのかと聞かれたこともあったが、その時改めて実感したのは今の関係が最適で、天職だと思っていること。

時に破天荒に、時にずる賢く走っていく、女らしくて小悪魔な探偵を、あれやこれや言いながらサポートするのが楽しくて仕方がない。

確かにその関係は仕事上のパートナーで、さらに私生活でも仲の良い相棒であった。


そして彼女は己を磨くことを趣味としていて余念がなく、その身を包むものの多くはハイブランド品である。

衝動買いが過ぎるわけではないが、時折思ってたのと違った~などとお下がりを渡してくることもあって、瀬里奈としても普段の雰囲気と違うハイランクを試せる機会があって良いかと受け入れていた。

此度の装いも、これから会う相棒がぜひ身につけてくるようにとねだった上での選択だ。


ふと丁寧に象られたネイルを器用に交わしてスマホをタップすると、ちょうど家を出る予定としていた時刻になっている。

そのまま画面を閉じて鞄に押し込むと玄関へと至り、ブーツの踵を鳴らして扉を開ければ目の前に抜けるような青空が広がって陽光を燦々と降り注いだ。

休日にピッタリの、外出日和といえよう。

トップスのサラサラの生地が肌を撫でる心地よさを感じながら、待ち合わせ場所へと先を急いだ。







待ち合わせ場所と言えばあまりにもスタンダードで、其処へ行くというだけでああ連れがいるんだろうなと察されそうな駅前の、とある愛らしい銅像の前で人混みを眺めて暫し。

約束の時間ぴったりにその足音はコツコツと早足気味に、背後へと近づいた。


「瀬里奈ちゃん!おまたせ~」

瞬間、首元を覆う布の感触とかすかな圧迫感、柔らかな体温、マンダリンやベルガモットを思わせる、フルーティなトップノートの香り。

「桃子、こら、危ないでしょ。」

出会い頭に飛びつくようにハグを繰り出してきた相棒を避けることなく受け止め、その腰元を抱き返してやりながら笑みを零す。

そんな軽い窘めは叱るうちにも入らず、彼女も予想していた反応だったのだろう、満足げに笑って体を離した。


ヒールのせいでやや背の高い女二人が往来で抱き合うのは人目につくが、さして気にする様子もなく、一言二言交わすとその場を離れ、歩き出す。

仕事であれば当然目的地が分かっていて、今後の段取りの話でもしながら行くところだが、此度はすべて任せるように、との仰せである。


「ふふ、私が選んだ服と口紅の可愛い子を連れ回すのは楽しいなあ。」


ポツリと零した声にそちらを見やると、言葉の通りひどく楽しそうににんまりを笑みを浮かべていて、嘘がないことが分かりやすく見て取れる。


コツコツ、と二人分のヒールを鳴らして街を行き、青々とした街路樹をくぐり、人に溢れた横断歩道を渡り、段々と駅前の雑多な通りを離れて閑静なエリアへ。

ひとつふたつ、角を曲がって大通りから逸れていくと、無機質なコンクリートの地面から、白とベージュの石畳が現れた。

一つの通り全体を象るそれは、どこか外国の街並みを彷彿させる。

並ぶ店は海外のセレクトショップ、紅茶の専門店、オーガニックコスメ、ブランドスーツの仕立て屋…

駅前の便利でファストな雰囲気とはガラリと違う、洗練された大人の街が、其処には広がっていた。

こんな場所いつから知っていたのか。

意外とあなどれない情報網は、探偵という職業柄ただ納得しておくのがいいかもしれない。


「はい!今日はここで瀬里奈ちゃんの快気祝いをします!」


石畳の街並みをちょうど中腹あたりまで歩いてきた所で、かつ、とヒールの音を止める。

ここで、と指し示されるままに傍らに佇む看板を見上げると、シックな黒い看板にバーラウンジの文字。

店内の壁は黒で統一されてシックな様相で、シャンデリアと間接照明が灯っていた。

バーとはいえランチでも営業しているようで、店内にはチラホラと客の姿が見える。

あまり若い手合いは居らず、慣れた様子の年配の夫婦や、近隣を拠点に仕事しているらしい上等なスーツに身を包むビジネスマンがゆったりと過ごしていた。


快気祝いと言われて不意に忘れかけていた…ほんのひと月ほど前の生活を思い出す。

清潔で無味な病室で過ごした数日間。

いや、実際はもっと長くいたはずだが意識がなく、眠り続けていたので記憶に無いのだ。


交通事故に遭い、意識不明の重体で入院を余儀なくされた数日間。

咄嗟に隣りにいる桃子を庇って突き飛ばした、その時の掌の感触は覚えているのだが、不思議と跳ね飛ばされた痛みは覚えておらず、気がついたら病院の天井で医師と看護師に囲まれていた。

病院からの連絡で、家族よりも早く駆けつけたのがやはりこの相棒、桃子だった。


彼女は眠り続ける瀬里奈を見舞うことはなく、傍目にはいつも通りに探偵業を続けているように見えたと、後で探偵事務所の所長に聞いた。

しかし電話を受けてすっ飛んできたらしい彼女はいつものお洒落心もどこへやら。

走ってきたのか髪はぐちゃぐちゃでメイクも崩れ気味、運動が得意なわけでもないのに息を切らせて…良かったと抱き縋って、泣いた。

本人が話さないので正解は分からないが、いつか目覚める瀬里奈のことを、きっと信じて待ってくれていたのだろう。

瀬里奈の知らない日常を過ごしたことが、彼女自身の戦いだったのだ。


当時を思い起こし、また今日は祝だと嬉しそうにはしゃぐ姿に、どれほど愛されているのかが伝わるようで、どこかむず痒かった。


ウォールナットのきめ細やかな木目で飾られた扉を押し開き店内へ踏み入れると、既に予約を取っていたらしくにこやかな店員に奥の仕切られた席へと通される。

扉と同じウォールナットと、ステンドグラスの嵌められた間仕切りで街の喧騒からは外れ、代わりに店の裏手に広がった手入れの行き届いた薔薇の咲く中庭を臨むことが出来る半個室。

ゆっくりと食事と会話を楽しむにはピッタリのロケーションだ。


「こんなお店、いつ見つけたの?」

「実は最近ね~。この雰囲気でランチありなのがいいよね、もう注文してあるから、飲み物だけ選んで。」


手渡されたメニューも黒字に金の文字が入った重厚な作りで手触りが良い。

ページをめくると飲み物をと勧められた通り、其処に羅列されたのはドリンクだけのようだ。

ブレンドや紅茶といったランチ定番のものから、カクテルやワインなどバーらしいものも各種取り揃えられている。

これから昼食と思えばシンプルな注文をと思うが…ちらりと視線を上げれば。


「因みに私はホワイトのサングリアにします♡」

「やっぱり飲むのね。」


机に両手で頬杖をついた桃子は目が合うとニッコリと嫋やかに笑って、聞き慣れたアルコールの名を口にした。

特別に強いわけでもないのに酒好きな彼女らしい。

予想通りの解答に思わずクスクスと肩を揺らしてから、じゃあ私はこれ、と辛口のスパークリングワインを赤いネイルがなぞった。


注文していたのはランチのコースだったらしく、ふんわりと蒸し上げた鶏肉とと欧州野菜の彩りが華やかなシーザーサラダに、鯛だろうか、白身魚とピーナッツソースの薫りが香ばしいカルパッチョが前菜として運ばれてくる。

一見して女二人の気軽なランチ、の様相ではないことが分かるバリエーションだ。

快気祝いという言葉からして桃子はここを奢る気だろう。

少々もの言いたげにじとりと睨めつければ、今日は特別だから!と誤魔化すようにグラスを差し出すので、いつものように嘆息しながらもその好意に胸を温め、乾杯をした。

喉を潤すスパークリングワインは軽やかに爆ぜ、舌の上にスッキリとした苦味を残して滑り落ちる。


新しいコスメブランドが気になっている、あのバラの色珍しいねなどととりとめのない話をしながらフォークを繰り、一つ一つ食材を口中に放り込むと幸福を徐々に積み重ねるような感覚に満ちていく。

スープはオマールエビのビスクで濃厚な海鮮の風味にパセリとクルトンがアクセントとなって歯ざわりを楽しませる。

パンは全粒粉、もっちりとした生地に溶け込むバターの塩味がちょうどよくそのままつい食べきってしまいたくなるが、それだけでは惜しい。

グラスが一度空いて、同じものを注文するのと同時にサーブされたメーンディッシュは牛肉。

ブランド牛のランプ肉をじっくりと弱火で焼き上げで肉汁を閉じ込め、バルサミコとオレンジの爽やかなソースで仕上げたビーフステーキだ。

この肉汁と酸味のあるソースと共にパンを頬張らなければならない、まるで義務のようにも思える。


食事が運ばれてからも無論会話は続いたが、食材が美味しいうちに食べたいと無意識にでも思っているのか、ふたりともフォークを進める手が止まることはなく、皿の上はぺろりと綺麗になってしまった。

最後にデザートとコーヒーが運ばれてくると言うのでグラスを空けて背もたれに身体をあずけ、ひと心地ついているとふと席に影が差す。


傍らを見上げれば一人の紳士がにこやかに二人を見下ろしていた。


「お嬢さん方、食事を楽しんでいるようだね。良ければ近くに私の贔屓の店があるんだが…」


見知らぬ男の来訪に一瞬警戒するが、その内容にすぐ意味を理解して桃子を見る。

彼女も意図には気づいたようで苦笑すると、示し合わせるでもなく。


「今日は女二人の気分なので。」


そう言って断った。

町中で遭遇する、ワンチャンあればラッキーという思考がダダ漏れの猿に比べ、幾分ジェントルマンな男はそれだけであっさりと身を引き、和やかな笑顔のままに「ではまた機会があれば」と言い残してその場を去っていった。


「ああいう金払いの良さそうな紳士は範疇じゃなかった?」

「あー…」


態々この場で声を掛けてきた男性について行きたいわけではなかったが、以前であればああいった男にはひとまず奢られておこう♡と言った思考が先行していたように思う。

だがいま、相談するでもなくきっぱりと断った彼女の様子は少し珍しい気がして目を丸くしてしまう。

それに気づいたのか、桃子は苦笑を零してグラスに残っていたサングリアをひと欠けのオレンジとともに飲み干した。


「…グルメな男は、好みじゃないの。」


置いたグラスの中で氷が回り、ガラスを叩いてカランと音を立てる。

微かに伝う結露がコースターを濡らしシャンデリアの照明を反射して、キラキラと栗色の髪を照らしていた。

視線を落としたその長い睫毛に複雑な想いが宿っているごとく顔に影が差したが、それもほんの一瞬のこと。

静かな呼吸が吐き出され、次の呼気を吸う頃には、ぱっと華やいだ笑顔に戻り反する言葉を続ける。


「瀬里奈ちゃんこそ、どんな人がタイプなの?まあどんな男でも桃子さんの面接を通ってもらわないといけませんけど~」

「なにそれ?不合格だとどうなるの?」


打って変わって面白おかしそうににんまりと口角を上げて、ずいと距離を詰めてくる。

会ったときにはフルーティーなトップノートの香りがしていたが、いつの間にやらフェミニンなジャスミンの香りが強くなって鼻腔を擽った。

それが彼女の香水だと気づくと、不意にふわりと別の芳ばしい香りが背後から漂う。

失礼します、と店員が現れてデザートとコーヒーをサーブしてくれたのだ。


ブラックコーヒーは挽きたてをハンドドリップしたのか非常に香り高く、澄んだ黒。

白桃のコンポートが添えられたガトーショコラは、見るからにしっとりとしていて実に美味そうで、さっくりと盛られた生クリームも満たされたはずの食欲を誘う。

桃子はその見た目に感嘆のため息を零すと、女子らしくスマホで幾度か撮影し、やがて気が済んだようで傍らに置くと、コーヒーにミルクを入れてくるくるとかき混ぜ始める。

黒いコーヒーの中に白い波紋が広がり、溶けて混ざっていく。

くるくると、酸味のある苦い香りが心なしか柔らかくなった。


「瀬里奈ちゃんは私に略奪愛されることになります。」


と、真剣な顔をして瀬里奈を見つめ、続けたセリフに思わず吹き出してしまった。


「馬鹿じゃないの。」


考えるまもなく飛び出た揶揄に、テーブルに笑い声が響く。

こうして冗談も言い合える気さくな相棒だ、きっと瀬里奈を心配してのことなのだろう。

実際に万が一酷い男に惚れて傷ついたときには、全力で守ってくれるに違いない。

それを照れるでもなく口にする桃子も、また素直に受け取れる瀬里奈も、唯一無二の関係で成り立っているのだ。


仕事上の相棒であり、友人であり、名前の付けられない、大切な二人。

頬張ったガトーショコラは思った通り濃厚で、舌の上にとろける甘さを残して消えていった。


窓ガラスの外のバラは艶やかな赤色で、ゆっくりと暮れる午後の陽光に晒されてまるで昼寝に微睡んでいるよう。

昼間から煽ったアルコールのせいで胸はぽかぽかして心地よく、美味ばかりがのった舌も、腹も順分に満足だ。

テーブルのさらにはあと2,3口のガトーショコラ、それからコーヒーが一口程度。

次の話題に移る頃にはそれらはするりと胃に収まってしまうのだろう。


この後は店を出るのか、それとももういっぱい、なんてアルコールメニューを開くのか。

この日は休日、しかもまだ午後の昼下がりだ、たっぷりと時間は在る。

この後どうしよう、なんて些末な悩みでウダウダ考えられる、こんな時間はなんて優しくて愛おしいだろう。




なんでもないこの時間が、この瞬間が。

宝石よりも綺羅びやかな宝物だと、気づいて…いや、知っているのは、まだ。


桃子だけかもしれない。





「瀬里奈ちゃん、目覚めてくれて…ありがとう。」





(5714字)

Happy birthday Mehi! ♡♡♡